書評

【書評】司馬遼太郎『義経』

今回は、司馬遼太郎さんの歴史小説『義経』の感想を書いていきます。
当方、歴史が苦手で知識もほとんどない状態で読み始めたのでかなり苦労しましたが、司馬遼太郎さんの見事な文章力で最後まで楽しんで読むことができました。
歴史小説を読むのははじめてなので、他のものと比較して感想を書くことはできませんが、自分が関心を持った点を中心に紹介していきます!

こんな人におすすめ

・平安時代後期~鎌倉時代初期に関心がある。
・なぜ義経という人物が人気なのか気になる。
・義経の人間性を知りたい。
・歴史に関心がある。

本書の基本情報

基本情報

タイトル:『義経』
著者:司馬遼太郎
出版社:文藝春秋(文春文庫)
価格:上下巻ともに 760円+税
ページ数:上巻・490p、下巻・498p
ISBN:(上)978-4-16-766311-7
  (下)978-4-16-766312-4

あらすじ

みなもとのよしつねーその名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代……幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。

引用元:司馬遼太郎『義経㊤』

注目した点、感想

義経という人物から愛着について考える。

義経の一生は短いもの(享年31歳)で悲しい最期を迎えるのですが、ひどく人気があった人物として知られています。もちろん、全ての人に好かれていたわけではなく、頼朝サイドの武士からは義経の常識のなさと尊大な態度、命令を無視して奇抜な戦術を指示したこと等が原因となって嫌われていました。

小柄で美麗な容姿、輝かしい戦功が、義経人気の主な理由だと思うのですが、義経の人情の厚さや人懐っこさも支持を得た理由だと思いました。
人情の厚さや人懐っこさが表れている文章を引用させていただきます。

この若者の性格を泰経はよく知っているが、どういうものか大人とも思えぬほどに甘ったれなのである。法皇に対してもそうであった。法皇が愛撫してやると仔犬のようによろこび、じゃれつきたいような様子を見せる。肉親の頼朝に対しては当然その点がはなはだしく、おとなのくせに必要以上に肉親以上の愛をほしがり、兄としての愛をー幼児が母親の乳に飢えているような切なさでーくがれているようであった。

引用元:司馬遼太郎『義経㊦』p.207

この若者は多忙であった。公卿や神官、僧侶などが、毎日むれをなして義経に面会を求めてやってくる。それらに会わねばならず、この日もすでに灯ともし頃になっていたが、いちいち会った。荘園のあらそいのことや鎌倉どのへの取りなしのことなど、持ちこんでくる依頼は雑多であったが、義経はいちいちたんねんにきいてやり、しかもその世間にうとい若者は頼みこんでくる者にいちいち好意をもち、依頼者に有利なはからいをし、たれもかれもよろこばせた。

引用元:司馬遼太郎『義経㊦』p.398

義経のこの人情深さや人懐っこさは、幼少期の愛着形成が不十分だったからなのかな、と推察しています。義経は幼いころに父(義朝)を亡くし、平家の監視下で母親と暮らしていました。そして、11歳の時に母と離れて僧になるために鞍馬山へ。そこでは、大人から性的ないたずら、同年代くらいのこどもからはいじめを受けていました。このような経験をしていると愛着不全が起こっても仕方ないような気がします。

義経は政治には全く興味がなく、父の敵討ちのために刀と馬術の鍛錬に明け暮れ、数々の戦功を上げてきました。その努力の源泉になったのは、悲しいことに愛に飢えていたからだろうと思います。

人懐こさは”かわいく”見えることもありますし、周りから愛されやすい存在になると思います。一見これは良いところのようにも思えるのですが、そこには人の気持ちを十分に推し量る力が不足していたり、周りが見えなくなってしまったりするという”弱さ”にもなり得ます。人に騙されやすい存在にもなります(実際に義経は様々な人に騙され、裏切られてきました。)

この記事を書いている私も愛着不全に陥っていると思っているのですが、義経と重なる部分を感じ、少し辛くなりました。一見周りから愛されているように見えるのですが、常に愛に飢えていて、どこか満たされない感じ。”いい人”だと言われながら、苦しむ……。

義経を読んで、適切な愛着関係を築くことの大切さに改めて気付きました。

血縁関係について

義経は血縁関係をとても大切にしていました。”血のつながり”だけが義経の原動力になっていたように思います。父・義朝の敵討ち、兄・頼朝への尊敬の念…これをずっと持ち続けていました。しかし、頼朝には嫌われてしまったのがなんとも辛いところです。

昔は今以上に血縁関係を大切にしていたような印象を受けます。先日、「家族とは」というテーマで友人と話した時に、”血のつながり”だけではないという話が出てきました。血のつながっていない家族というのは少ないと思いますが、しかし、血のつながりがなくても家族として暮らしている方もいらっしゃいます。私自身は異父兄弟の中で育ちました。血のつながっていない義父と長年暮らしていましたが、やはり、”血がつながっていない”と感じることは多かったです。どういったらいいのか…どことなくフィーリングが合わないというか、やっぱり”他人”の域を超えることはありませんでした。それは、義父が私とあまり関わろうとしなかったことが要因なのだろうと思いますが、血のつながりがないとどこか違和感を感じるみたいなことはあるのかなぁと個人的には思っています。血のつながりって不思議ですね。

しかしながら、家族になるためには血のつながり以上に「家族であろうとすること」「一緒に生きていく」そういう姿勢が大事なのかなとも思っています。結婚は基本的に血のつながっていない他人と行います。しかしながら、血のつながりがなくても家族になれるのです。こう考えると、家族になるためには愛の力、意志の力というものが一番大切なんじゃないかと思います。
血のつながりに極端に固執していた義経の気持ちもなんとなく分かるし、でもそれだけが家族になる条件になったり”愛される”条件になるわけではないな、とも思いました。

まとめ

今回の書評はこんなかんじです。
もう少し歴史的な知見を交えたり、戦術について述べたりした方がよかったのかもしれませんが、その辺の知識がまったくないのでこのくらいで勘弁してください笑
歴史小説を読むと、社会はどれだけ変わったのかということがひしひしと実感できますね。また、不変的なものも見つけることができます。歴史の面白さはそこにあるのかもしれません。

上下巻で約1000ページもある超大作ですが、司馬遼太郎さんの文章が非常に面白いので読む価値はあるかと思います。個人的には義経という人物に共感しながら読めたので結構楽しかったです。

ABOUT ME
りゅう
教育学部卒。 Xジェンダー/アセクシュアル/吃音症/強迫性障害 人と人が繋がり、悩みを気軽に話し合えるような場の提供がしたい。 SOGI、障害関連のことをよく考えています。 本を読む人。書評やコラムもぼちぼち書いています。