『日蝕』で第120回芥川賞を受賞された作家・平野啓一郎さんの代表作とも呼べる『マチネの終わりに』の感想を書いていきます。
本作は、映画化もされ、とても話題になりました。また、平野啓一郎さんは「分人」という概念を考え、広めた人としても有名です。『マチネの終わりに』でも、言葉としては出てきてませんが「分人」のエッセンスが含まれています。
美しい文学的な表現が散りばめられているのはもちろん、平野啓一郎さん自身の思想が濃く作品に現れていて、とても読み応えのある作品です。
その魅力を少しでもお伝えできればと思います。
✔ 恋愛小説が好き。
✔ 苦い「過去」を持っている。
✔ 芸術や思想・哲学に関心がある。
✔ 芥川賞作家の作品が読みたい!
本書の基本情報

基本情報
タイトル:『マチネの終わりに』
著者:平野啓一郎
出版社:文藝春秋(文春文庫)
価格:850円+税(文庫価格)
ページ数:468p
ISBN:978-4-16-791290-1
あらすじ
天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト・小峰洋子。四十代という”人生の暗い森”を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に、芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死などのテーマが重層的に描かれる。
引用元:『マチネの終わりに』
おすすめポイント・感想

「過去は変えられる」のか
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
引用元:『マチネの終わりに』p.33
蒔野が小峰に対して言ったこのセリフは、この物語の中核であるとも言えます。引用したのは冒頭の部分ですが、「過去は変えられる」という、この強烈なフレーズは終盤でも何度も登場してきます。
さて、本当に”過去を変えること”はできるのでしょうか。
よく耳にするのは「過去は変えられないが、未来は変えられる。だから良き未来のために今努力しよう」みたいな文言です。ビジネス書とか読んでてもよく出てきますね。
「過去は変えられない」というのはどう頑張っても変えられない事実だと思います。少々残酷ですが、過ぎ去ってしまったものには手が届かないように、書き換えられないように、この世界はできています。だから、過去よりも未来に目を向けて今を生きた方がいいという主張はよく分かります。
でも、だからといって過去をないがしろにするのも違っているように思います。過去に起こったことそのものは変えることができませんが、その時の出来事に対して抱いた感情と、現在から過去を見つめたときに抱く感情に差異が生まれることってよくあります。
「あの時はとてもつらかったけど、振り返ってみればいい思い出」なんて言う人も良くいます。私たちは今を生きていくことで「未来」だけでなく「過去」も同時に変えていっているからなのかもしれません。
過去の辛かった経験を無理やり「いい思い出」に変換してしまおうとする作業は、自己否定につながる気がしているのであまりよくはないのかなとは思っています。ただ、辛い過去の記憶をいつまでも引きずるのはとても辛いことなので「いい思い出」にしたくなるという気持ちはすごく分かりますし、やはり私自身にもそういうところはあります。
「過去を変える」というのは、過去の出来事を書き換えることではありません。おそらく、新たな視点で、感性で多角的に過去を見つめることができるようになることを指しているのだと思います。私たちは、未来をより良いものにするためだけじゃなく、過去も美しいものにする、あるいは私の人生の一部として受け入れられるようにするために今をがむしゃらに生きているのかもしれません。
”今の私”というのは常に”過去の私”を背負っている、と私は考えています。過去の記憶というものは、簡単に手放せるようなものではないのです。未来に目を向けて生きるというのもいいのかもしれませんが、過去の自分を大切にするということ、過去に目をむけるということも、よりよく生きていくためには必要な事なのかもしれないな、と思いました。
ただ、過去に目を向けるというのはとても大変な事です。この作品では本作に登場する蒔野、小峰、三谷等様々な人物が辛い過去とともに生きる姿が描き出されています。自分の傷を癒すために、今の自分を肯定するために、過去の自分に翻弄されながら、仕事をし、恋愛をし、生死と向き合うのです。端からみると、とても格好悪く、醜く見える様なこともあるかもしれませんが、私は彼らの生き様にとても胸を打たれました。これを”良い”人生を呼んでしまうのは違うような気がしますが、生きるというのはこういうものなのだろうと思います。
前向きではないし、清々しいハッピーエンドを迎えるわけでもないですが、「もうちょっと生きてみるのも悪くないかな」と思えるような、温かな手を背中に当ててくれるようなそんな作品だったなぁと思います。
《ヴェニスに死す》症候群
「父からは《ヴェニスに死す》症候群だと言われました。父の造語で、その定義は『中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』だそうです。」
引用元:『マチネの終わりに』p.52
「《ヴェニスに死す》症候群」という造語が出てきて、これもこの作品のキーワードなのかなと思います。
この言葉の定義を読んだ時、ハッとしました。自分にも似たような経験があるからです(まだ中高年と呼ばれる年齢ではないですが…)。
長く生きていると、いつの間にか自分というものを見失っている、もしくは見失っているような気になる、ということがあります。少なくとも私はこのような感覚に陥ったことがあります。いや、もしかすると現在進行形かもしれない。
人間は社会に適応していく性質があると思います(人間に限らず生物全般に言えることですが)。社会に適応していく、というのは社会に影響されながら自分がそれに合わせていくということです。自分というものをちゃんと持ったまま適応できればいいのですが、なかなかそう簡単にはいきません。
この社会には見えないところで色んな力が働いています。時に、自分が選択したくないことでも選択しないといけない場面が必ず訪れます。それが繰り返されると、どんどん自分というものを社会に書き換えられ”本来の自分”というものを見失ってしまいます。
自分を見失うというのはとても怖いことです。とはいえ”本来の自分”というのが何なのかというのも難しい問題なのですが……。厳密に言えば、”本来の自分”というものは存在しないのかもしれませんが、ただ、前述したとおり社会によって自分を変えられているという感覚は確かに存在します。それに対抗しようとすることが、この《ヴェニスに死す》症候群というものなのだと思います。
ただ、社会に適応することを完全にやめてしまうと、おそらく生きることができません。本来の自分を取り戻したいという気持ちはよく分かるのですが、本来の自分を取り戻すための行動は大抵端から見ると破滅的な行動に見えます。
「本来の自分とは」や「よりよく社会に適応するには」ということについて、深く考えてみる必要があるかもしれませんね。
「分人」という概念

「分人」というのは、平野啓一郎さんが提唱している概念で、「状況や相手によって異なる自分になる」ということを指しています。
分かりやすい例でいうと、親と一緒にいるときの自分、友達と一緒にいるときの自分、恋人と一緒にいるときの自分、それぞれ異なる自分が存在する、ということです。人間には色んな顔があるということで、分人主義はそれに肯定的です。
意図的に変えている場合もあるでしょうし、無意識に変えている、あるいは変えられている場合もあります。
私自身は色んな顔を持つのはしんどいので、基本的にどこに行っても同じ自分であろうとしていますが、相手や周りの状況によって変えられてるという感覚を強く持つことがあります。
悲しくないのに(意識的に)涙を見せることもありますし、一人でいるときの自分と友人や同僚といるときの自分はやはり微妙に違う気がしています。ある意味、これも「適応」の一種なのではないでしょうか。
私自身、その”異なる自分”に気付いたとき、相手を騙してしまっているんじゃないかという罪悪感に襲われてしまうことがあります。しかし、平野啓一郎さんは”異なる自分”があることを肯定的に見ておられます。確かに、私たちはいくつもの異なる自分を持っているからこそ、なんとか生きていくことができているのかもしれません。
作中でも、相手や状況によって”異なる自分”を自覚し、それに不思議な感覚を覚え、時に否定的に、時に肯定的に捉える描写が見られます。私たちは、全て自分の意思や選択で生きていると思い込む傾向にあるように思いますが、実は自分の意識の外側による選択というものも沢山しているのではないでしょうか。それは、かならずしも良い選択と言えない場合もありますが、その”異なる自分”を全否定してしまうのも違うな、そこまで自分の選択に責任を負わなくてもいいなとこの作品を読んで思えるようになりました。
まとめ

蒔野と小峰の恋愛を主軸としながら、家族や恋愛、友情、芸術の力など色んなことについて深く考えさせられる作品でした。
ここでは紹介しきれませんでしたが、「孤独とは」「愛とは」「幸福とは」というような、平野啓一郎さんの思想強くでていて、非常に面白かったです。
「過去」というのは不可逆的・不変的なもので、どうすることもできない後悔を生むとても残酷なものでもありますが、今の私が存在するのはその過去があったからこそだとも言えます。過去とどう向き合い、今をどう生きるか…これは人生においてとても大切なテーマなのではないでしょうか。
平野啓一郎さんの提唱する「分人」という概念について書かれているエッセイ・対談集があるみたいので、近いうちにそれも読んでみたいです。