『何もしないことは最高の何かにつながる』

「何もしないことは最高の何かにつながる」
これは、映画『プーと大人になった僕』のセリフです。
幼少期のクリストファー・ロビンからプーさんが教わったことで、プーさんはこの言葉を宝物のように大切にしています。
”大人”になったクリストファー・ロビンは忙しない資本主義社会の中で生きていく中で、「何もしない」ということは次第に「無価値なもの」「生産性のないもの」と捉えるようになり、同時に「何もしない」という態度ではこの社会にうまく適応して生きていけないと考えるようになります。
「何もしないことは最高の何かにつながる」
この言葉が今の自分にとても刺さりました。
それは、いつからか自分が、社会からの無言の要請・圧力によって何もしないことを”悪”のように捉えてしまうようになっていたからです。私は気付かぬ内に、”大人になったクリストファー・ロビン”になっていました。
また、「意味のあることをしなければ」、「価値のある人間にならなければ」という焦燥感を常に抱えていて、そのことに疲れを感じてもいました。
時間を無駄にせず、社会に適応して価値のある何かになる。
これは、社会から排除されないようにするという意味で”自分のため”でもあります。しかし、”自分のため”にやっていることなのに、自分自身を苦しめてしまっている、という矛盾が起きているということに気付いてしまったのです。
この矛盾に気付いたところまではいいのですが、では、本当に「何もしないこと」が「最高の何か」につながるのでしょうか。このことについて少し考えてみます。
”意味”と”自由”について

プーさんの言う「何もしない」は、”目的”や”意味”を意識しない、ということだと私は考えています。
資本主義社会は私たちの行動すべてに”目的”や”意味”、あるいは”生産性”を求めます。したがって、資本主義社会における最高(成功・幸せ)の形は、目的をもって行動し、富を築く、名声を得る、(国の成長のために)結婚して子を設けるといったようなことになりがちです。そのためには、資本主義社会に適した人間になる必要があります。競争社会で生き残っていくためのスキルを学校や会社で叩き込まれます。つまり、社会が必要とする「成長」を私たちはしなければなりません。
ここで、なんとなく気付いた方もいるかもしれませんが、私たちの成長あるいは自由の形はとても限定的です。もちろん、資本主義社会に適した成長や生き方というのは細かく言えば多様なのですが、”資本主義社会に適した”と言っている時点で非常に”限定的”であります。
しかし、多くのメディアや学校、あるいは権力を持った人などが多くの資本主義社会に適した生き方(成功例)を、私たちに提示し続けることで「私たちの幸せの形は多様である」「決して限定的ではない」と錯覚させます。
資本主義社会の中でもこんなに”自由”に生きている人はたくさんいるんだ。だから君にもできるよ。
こんなメッセージを受け取っているような気になります。
「だから君にもできるよ」という言葉は、その人への”期待”を込めながらも、同時にその人の今や過去を否定しているような暴力性も孕んでいます。また、ここでの”自由”は本当に自由なのか。本当にその人自身が自由を感じているのか。一般的に言われる”自由”に必要な要素を持っているから、自分の今の状況を自由だと思い込んでいるだけなのかもしれない。
しかも、重要なのは自由だからと言って必ずしも幸せとは限らない、ということ。いくらお金や時間があっても幸福を感じられていない人もいるでしょうし、逆にある程度制限を受けながらも幸せに生きている人もいる。おそらく、資本主義社会に適応した形の”自由”ではない、本当の意味での”自由”は幸福と強く結びつくような気が私はしています。
「何もしない」生活をしてみて感じたこと

そこで、私は最近、「何もしない」ということをちょっと意識しながら生活するようになりました。「何もしない」というのは、資本主義社会に抵抗するための一つの手段じゃないか、と考えています。
目的や意味から距離を置く「何もしない」生活をする中で感じたのは、精神的な安定(自由)と前向きではない自己肯定。社会にとって目に見える有益なものはおそらく何も生み出していないものの、たしかに自分にとって必要な何かが「何もしない」生活にあるような気がしました。
時間をかけてご飯を作って、意味もなく外をぶらつき、眠たくなったら気が済むまで寝る。それだけでも意外に幸せを感じられるものだなと思いました。何かしなきゃいけない、誰かにとって意味ある何かにならなければならないという強迫観念からの解放が幸福感に繋がったのかもしれません。
「前向きでない自己肯定」と書いたのですが、これはどういうことかというと、ちょっと言葉では言い表しづらいのですが「それなりにちゃんと生きれてるし今のままでいいや」といったような、”成長”や”比較”を必要としない自己肯定……これで伝わるかな。資本主義社会の中では常に”成長”を求められ、他人との比較に晒されます。そんな社会の中で生きるのに慣れてしまうと、どれだけ成長し、どの立ち位置に自分がいるかということで幸福かどうかを判断するようになる危険があります。
とりあえず今は「何もしない」生活をしばらく続けていこうとは思っていますが、これで上手くやっていけるかは正直よく分かりません。いくら資本主義社会に抵抗しようとしても、抵抗しすぎたら社会から排除され生活が保障されなくなる恐れがありますしね。この辺は社会の変化を注意深く見ながら(でも時々距離は置いて)やっていこうと思います。
おまけ:意味が生まれるとき

そういえば、私のよく聴いている曲で、意味を持たせないように作詞したと作詞者が言っているものがあります。
星野源さんの『レコードノイズ』とヨルシカさんの『花に亡霊』です。
この二曲はメッセージ性を意識せずに書いたと言われていますが、面白いことにこの曲を聴いた人の中には感動する人もいれば、何らかの意味を見出す人もいます。
何が言いたいかというと、私が目的や意味を意識せずに行動したとしても、意味を見出してくれる人がある場合もあるし、後から意味がついてくることもある。意味がいつどこで発生するかはその時になってみるまで分からない。ただ「何もしない」で生きているだけでも、もしかしたら意味のある人生になっているかもしれないし、誰かにとってかけがえのない存在になっているかもしれない。
即効性ばかり求めたらダメなんだろうなと思う。いつか意味になるかもしれないな、くらいのスタンスでゆったり構えていた方が楽になれるような気がします。
最後に『プーと大人になった僕』と自分の好きなゲームから気に入ったセリフを一つずつ紹介して終わります。
「風船は持っているだけで幸せになれるよ」
「将来の進むべき道だけを見て、いま、歩いてる道に咲いているキレイな花を見ないのはアホのすることやで」
気付いていないだけで幸せはすぐそこにたくさん転がっているのかもしれませんね。